『空の声』書影
2020年4月 スポーツ中継

『空の声』文藝春秋

戦後初めて日本が参加する夏季オリンピックに派遣された人気アナウンサー和田信賢。無頼な生き方を貫いた男は、ヘルシンキで病魔と戦いながら、「オリンピックの放送だけはやり遂げる」と奮闘する。実話を元にした日本スポーツ界復興の裏側。

第二部 7 より

 開会式当日は、残念なことに雨になった。せっかくの晴れの舞台なのに……朝、ホテルの窓から見る街も、灰色に染まっている。市電を待つ人たちはレインコートに帽子姿で寒そうに震えており、まるで冬のようだ。今日の最高気温はどれぐらいなのだろう。和田も薄いレインコートを持って来ていたので、今朝は自分の判断を褒めたい気分だった。

 蝶番の油が切れているのか、ぎしぎしいう窓を押し開け、外気を部屋に導き入れる。少しひんやりしていて、とても七月とは思えないほどだった。

「いやあ、まるで秋のような陽気ですね」同室の志村がネクタイを締めながら言った。

「本当だね。今日は、選手たちが可哀想だ」

「和田さんも、体を冷やさないようにして下さいよ」

「多少寒くても平気だよ。僕は座っているだけだからね」

「だから危ないんですよ。走っている方が体が暖まるでしょう」

「走りながらじゃ、中継はできないさ」

 軽口を叩きながら、和田はゆっくりと伸びをした。今朝は体調はまずまず……体が重く、だるい感じはするが、心配していためまいや吐き気はない。朝食を摂ったらどうなるか分からないが、とにかく食べなければ一日が始まらないと自分に言い聞かせ、一階のレストランへ向かう。団長の飯田が、今朝は全員一緒に食事をしようと呼びかけたのだから、無視もできない。

 代わり映えしない、卵とパンの朝食。しかし今朝は、テーブルは静かな興奮で温まっていた。

「今日は特別な日ですからね」飯田が表情を引き締める。「明日以降はそれぞれの仕事が忙しくなって、一緒に食事をする機会もないかもしれません。とにかく事前の打ち合わせ通り……何か問題が起きるのは間違いないでしょうが、臨機応変に乗り越えていきましょう。和田さん、今日の放送、よろしくお願いします。スタジアムの光景が日本の聴取者の目に浮かぶように――いや、先輩にこんなお願いは無用でしたね」

「せいぜい頑張らせてもらうよ」コーヒーをちびちび飲みながら、和田はうなずいた。オリンピック開会式の中継はもちろん初めてで、頭の中に上手くイメージが湧かない。ベルリン・オリンピックの中継を担当した河西に話を聞くと、「だらだら進むんだよ」と言われて困惑してしまった。各国の選手団がアルファベット順に入場して来るのだが、何しろ数が多いので時間がかかる。そこで上手く話さないと、大きく間が空いてしまうぞ――。

 和田は、選手の服装に注目しよう、と決めていた。選手たちは、それぞれのお国柄に合わせた服装で入場してくるに違いない。それを事細かく描写して、開会式の様子を想像してもらおう。おそらく各国の選手たちで埋まったグラウンドは、色あざやかなモザイク模様になるはずだ。そう、国と民族のモザイク――この言葉は本番で使えそうだ。

 食事を済ませて、早々とスタジアムに向かう。今日は開会式でタクシーは摑まらないだろうと事前に教えられていたので、用心して早めに出たのだった。案の定タクシーは全く走っておらず、小糠雨の中、電車とバスを乗り継いで行く。レインコートのおかげで体は濡れなかったが、帽子を被らない主義の和田の髪はすっかり濡れてしまった。癖っ毛がさらにちりちりになり、みっともないことこの上ない。しかし映像で映るわけではないのだから気にしても仕方ない、と自分に言い聞かせた。

 観客で埋まったスタジアムは、とにかく巨大の一言だった。最上部の観客からは、選手たちは豆粒のようにしか見えないだろう。放送席もかなり高い位置にあり、高所恐怖症気味の和田は、かすかな震えを感じるほどだった。施設としては、最新の電光掲示板にも注目だ。これを見れば、結果がいち早く確認できる。

 開会式そのものは、壮麗という形容詞を奉るのが相応しかった。各国選手が入場してくる様に、和田の視線は釘づけになった。残念ながら雨は降り続き、トラックもフィールドも濡れていて、観客席には傘をさしている人も多いのだが、それでもいよいよオリンピックが始まるという感慨が和田の胸を打つ。

 これが伝統ということで、一番最初に入場してくるのは、オリンピック発祥の地・ギリシャの選手団だった。各国、上衣に替えズボンという制服が多いのだが、中には異彩を放つ服装もある。グアテマラはアロハ風の派手な上着。オランダの女子選手は目立つ赤い帽子を被っている。イギリスはさすがに紳士の国というべきか、男性がシルクハットのような高い帽子を着用していた。最大の選手団を送りこんできたソ連は、男子は卵色の上衣に赤のネクタイ、女子は青服に白のスカートという鮮やかに目立つ格好で、しかもポケットに挿したハンカチを取り出して一斉に観客に振るサービスを見せる。これも演出かもしれないが、和田は意表を突かれて微笑んでしまった。ソ連といえば、共産主義の謎の国。粛清、弾圧の嫌な噂ばかりを聞くのに、オリンピックでは妙な明るさを振りまいている。もしかしたら、共産党の宣伝工作か? ソ連に次いで大人数のアメリカは、男子は白いパナマ帽、女子は赤いハンドバッグを持っていて、何だかファッションショーのようだ。やがて、広々としたフィールドが、各国選手団で埋め尽くされる。予想していた通り、色とりどりのモザイクのようだった。

 開会式の生中継は行わない和田は、ひたすら手元のメモに各国選手の様子を書きつけていった。

 突然、ざわめきと悲鳴が上がった。

「どうした!」

 飯田が苛立った声を上げ、立ち上がる。和田も慌てて周囲を見回したが、何が起きたか分からない……いや、見えない。雨が目に入ったのだろうかと擦ってみたが、スタジアムの風景は霞んだままだった。それでも、選手たちの間を縫うように、一人の女性が長いスカートの裾を翻し、トラックを走っているのが見えた。警備員や警察官が飛び出して捕まえようとしたが、なかなか足が速い。しかしそのうち、濡れたトラックで滑ったのか、派手に転んでしまった。ようやく追いついた警察官二人が両脇を抱えて立ち上がらせ、トラックから連れ出す。

「何だ、あれは」飯田が啞然とした口調で言って腰を下ろす。「和田さん、見ましたか?」

「ああ」細部まで見えていたわけではないが。「興奮して飛び出したんじゃないか?」

「しかし、妙齢の女性ですよ。いくらオリンピックの開会式でも、あんなことはしないでしょう」飯田は納得できない様子だった。

「後で調べてみよう。でも、放送できるかどうかは分からないよ。変な人かもしれないし」

「その場合は無視しましょう」一瞬興奮しただけで、飯田はすぐに冷静さを取り戻したようだった。

 この男もなかなか大変だ……政治的手腕に長けているというか、野心的な部分があり、今はアナウンサーでありながらスポーツ課長も務めている。将来は、さらに出世を狙っているだろう。そのためには、些細なことで取り乱してはいけないと自分に言い聞かせているはずだ。ただし最近の彼は、常にイライラしている。ようやくオリンピック本番が始まっても、それに変わりはなかった。今の不意の飛び出しも、普段の彼だったら座ったまま、じっくり観察していただろう。実際、手元には日本から持ってきた双眼鏡があるのだ。放送席は高い位置にあって見晴らしがいいし、すぐに双眼鏡を使えば、もう少しきちんと観察できたはずなのに。

 予想外の出来事は起きたが、開会式は無事に進んでいく。和田は手元のメモに視線を落としたが、また目が霞んでしまってよく見えない。元々視力はそれほどよくないのだが、それとは関係ない感じがした。スタジアム全体——全景も霞んでしか見えないし、自分で書きつけたメモ帳の文字もぼんやりしている。急激に視力が落ちた……というわけではなく、目に薄い膜がかかっているような感じなのだ。

 急いで目を何度も瞬かせたものの、視界は正常に戻らない。これはまずい……アナウンサーの命は「声」だが、「目」も同様に大事である。原稿を読む、目の前で起きている出来事をきちんと観察する、話している相手の表情を見て本音を読み取る――全て、視力がしっかりしていてこそできることなのだ。

 これも病気の影響なのだろうか。しかし、何の病気か分からない以上、判断しようもない。大原には、死を覚悟していると言ったが、この状態には耐えられない……何も分からぬままパッと死んでしまうなら仕方がないと思うが、体のあちこちにガタがきて、生きていてもアナウンサーとしての仕事が果たせなかったら辛い。

 もう一度きつく目を閉じ、ぱっと開ける。急に視界が明るくなって慌てた。何度か目を瞬かせていると、ようやく普通に見えるようになった。具合が悪いのは、一瞬のことだったか……。

「和田さん、どうかしましたか?」飯田が訊ねる。

「いや、ちょっと見えにくくてね」

「老眼ですか? まだ早いでしょう」

「いやあ、僕も四十だよ。老眼になってもおかしくない」

「眼鏡を誂えた方がいいかもしれませんね。フィンランドで眼鏡を作れば、土産話にもなるでしょう」

「注文するまで一苦労だよ」「助手の青年につき添ってもらえばいいじゃないですか。眼鏡を作るのも仕事のうちでしょう。目の前で行われている試合が見えなかったら、仕事になりませんよ」飯田の口調は厳しく、とにかく無事に期間中の中継を終えることを第一に考えているのは明らかだった。

「考えておくよ」

 どこかに眼鏡の専門店があっただろうか……見かけた記憶はないが、ストックマンにはあるのではないだろうか。六階建てのデパートは巨大で、どんなものでも売っていそうなのだ。いや、そんなこともないか。飯田が、整髪料のチックが切れたと慌てて探しに行ったのだが、とうとう見つからなかった。チックは戦前から普通に使われていた男性用の整髪料だが、フィンランドには同じようなものがないのだろうか……結果、飯田の髪は、このところぼさぼさのままだ。今日は雨に濡れてしまっているから、整髪料をつけていても無駄だっただろうが。

 開会式のクライマックスは、やはり聖火リレーから聖火の点灯だ。最終走者は、フィンランドの英雄、パーヴォ・ヌルミ。初めて生でその姿を見るヌルミだが、和田は少しだけがっかりしてしまった。濃紺のシャツの胸にはフィンランド国旗、そして白いパンツ――格好はスポーツ選手そのままなのだが、ヌルミ自身は小太りで頭も禿げ上がっている。これが「フライング・フィン」なのか? いや、彼が現役で活躍していた時からは、ずいぶん長い歳月が経ってしまっているのだ。それでもこの日、スタジアムの歓声は最大級になり、観客は英雄の走りを称えた。これがオリンピックの歴史……英雄は年齢を重ねても英雄のままなのだ。

 長い長い開会式が終わり、和田はげっそり疲れてしまった。レインコートも役に立たず、全身雨に濡れて寒気もする。こんなことではこの後が心配だ……しかし、始まってしまったのだから、何とか走りきるしかない。

 中途半端で倒れるわけにはいかないのだ。

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