名言集

『『解』〈インタビュー〉 「青春と読書」2012年9月号

夢を持ちにくい時代に社会に出た二人

  ——『解』は一九八九年、つまり平成元年に始まり、昨年(平成二三年)までの物語です。平成という時代がすっぽり収まったかたちになりましたが、着想には何かきっかけがあったのでしょうか。

 自分が生きてきた時間を振り返ると、すでに半分近くが平成なんです。昭和半分、平成半分。考えてみると、僕が社会人になってからの月日が平成とほぼ重なっている。

 平成になってからたくさんの事件がありましたよね。でも、昭和と比べると、いろいろあった割には濃密感がない。様々な出来事がばらけて起こっている感じがすごくして、なぜなんだろうと思ったわけです。平成になってからもう二〇年以上たっているから、このへんで自分なりに平成という時代を咀嚼してみようと思ったのが『解』の始まりでした。

  ——『解』の主人公は鷹西仁と大江波流の二人です。物語の導入部となる一九八九年時点で二人は大学生ですが、鷹西は小説家に、大江は政治家になるという夢を語り合います。二人はその後、それぞれの場所で夢を追いかけていく。ところが……という展開になっていくわけですが、二人の人物はどうやって生まれたのでしょうか。

 まず考えたのは、例えばこれが昭和二〇年からスタートする物語だったらどうなっているだろう、と。そこには未来しかない、終戦直後の絶望の中から出発するわけだから前を向いて進むしかない状態です。しかし平成の若者たちはすでに欲しいものは持っていた。目標はあっても夢は持ちづらい。

  ——たしかにそうですね。作中にも有名ブランドの時計やアクセサリーを身につける女子大生の話題が出てきますが、当時の大学生は社会に出る前に消費生活を謳歌していた。むしろ社会に出てからのほうが不安だったかもしれないですね。

 まさにそういう時代です。お金があればたいていのことはなんとかなると思っていたし、お金を稼ぐ手だてもあった。しかしそれだけに、今日よりも明日がよくなると素朴に信じることができない時代でもあった。高度経済成長の頃に社会に出た若者たちと比べれば、夢を持ちにくい世代なんです。しかし、そういう状況の中でも、夢——というよりやはり「目標」かもしれませんが——を心に秘めてまっすぐ歩き始めた若者たちを書いてみたいと思った。それが鷹西と大江なんです。

  ——大江は代議士の息子ですが、亡くなった父の跡をすぐには継がず、官僚を経てから起業家として成功し、政界に打って出ます。政治家を登場させたのはなぜですか。

 平成に入ってから、代議士がちょっとした失言に足をすくわれて失脚している例がたくさんありますよね。まともな代議士は何人いるんだろう、というくらいひどいことになっている。最近、ほかの小説でもこの言葉を使うんですが、日本全体が「劣化」しているんじゃないかと思ったんです。代議士の劣化はその象徴じゃないか、と。しかし、大江は劣化した代議士にはなりたくないと思い、お金を稼いでから政治家になろうとする。社会が劣化しても、その流れに逆らうようにして頑張っていけるのだろうか、学生時代の初志を貫けるのだろうか、という問いを象徴する人物として、代議士はぴったりだと思ったんです。

  ——一方の鷹西は作家を志しながら、まずは新聞社を受験して記者になります。堂場さんご自身の経歴とも重なりますが、鷹西には堂場さんの経験が反映されているのではありませんか。

 いや、そんなことはまったくありません。自分のことを書いたらエンタテインメントの作家は終わりですよ。ただ、僕も平成にデビューしているので、このご時世に作家になるってどういうことだろう、という思いはありました。出版物の売り上げのピークは一九九六(平成八)年です。その後は減少していく一方だから、平成は本が売れなくなってきた時代ともいえるんですよね。何でこんな時代にわざわざ小説家になるんだという、ちょっぴり皮肉な思いがないでもない(笑)。

平成に起こった幾多の事件を背景に

  ——『解』は一九八九年から二〇一一年まで、かなり長いスパンで展開します。これだけ長い時間を書かれたのは初めてですよね。

 時間の流れを書くことについてはたしかにチャレンジでしたね。僕が書いてきた小説は一週間くらいで終わる話が多いんです。警察小説の捜査にしても、スポーツ小説にしても。

  ——平成に起こった阪神・淡路大震災やウィンドウズ95の発売など、のちの日本に大きな影響を与える事件をさりげなく背景に織り込んでいますが、事件はどうやって選んだんですか。

 まじめに事件を書き込んでいったら、この二倍ぐらいの分量が必要ですよね。しかも、平成風俗史みたいになってしまうので、それでは本来のねらいとは違ってしまう。あくまで小説として面白くなるようにしなければならなかったので、どの出来事を入れるかの選択は難しいところでした。結局、一つひとつのことを突っ込んで書くよりは、背景として流していったほうがいいという結論になった。

  ——ほんの数行で触れられたことだけでも、その出来事がのちの社会に与えた影響を想起させます。物語に没入しながら、平成という時代を概観できたような気がしました。

 触れていない事件はまだまだありますけどね。どの観点で切り取るかでそこは変わってくる。例えば、僕は得意じゃないから書かなかったけど、経済的な事件を入れるという手もあった。平成に入ってすぐにバブルが崩壊して、山一證券の破綻(平成九年)があって、大企業の停滞と業界の再編はいまに至るまで続いていますから。

 ただ、僕が『解』で書きたかったのは、平成に起こった出来事というよりも、平成に入って、人と人、人と社会のつながり方がどう変化したか。どうやっていまのような状況が生まれたのかを書くために、これだけの長さが必要になったという感じなんです。 平成は「挫折」ではなく「崩壊」

  ——『解』の中心にあるのが、ある殺人事件です。事件の真相が暴かれるのかどうか、というミステリーとしての側面もありますね。

『解』で起こる殺人事件は一つだけ。つまり、謎は一つしかないわけですよ。ミステリーとして考えると、その一つだけで読者を引っ張っていくのは難しい。ミステリーの要素もたしかにありますが、ミステリー的な面白さよりも、平成という時代の空気感を楽しんでもらったほうがいいでしょうね。平成を生きてきた人たちはたくさんいるわけですから、この二〇数年間がどんな時代だったのかを考えてもらうきっかけになれば嬉しい。そのために心血を注いで書いたつもりです。

  ——日々の暮らしのなかで過去を振り返る機会はなかなか持てないものですが、『解』を読むと、近い過去にあった出来事が現在とどうつながっているかが見えてきます。  平成という時代には、「あんなこともあったよね」と思い出す。入り口はそこでいいと思うんですよ。

  ——鷹西と大江が平成という時代のなかでどう生きていくのか。そして、学生の頃に持っていた夢がどうなっていくのかが読者を引っ張る力になっていると思います。

 普通の小説であれば、「夢」や「希望」を持った若者が「挫折」するという物語になると思うんです。しかし、『解』は少し違います。「夢」や「希望」を持ちづらい時代に生きている若者たちが、「挫折」というより「崩壊」を味わう。

 もはや個人レベルの「挫折」では済まない。彼らが挫折から立ち直って生きていくことすらかなわないかもしれないという「崩壊」を味わう物語なんです。実際、社会の屋台骨が揺らいでいるような、崩壊の予感がありませんか。

  ——たしかに東日本大震災の復興問題も解決されていませんし、原発問題もあって難問山積みです。

 ある人間が頑張って、うまくいかなくて挫折するというのは、小説のスタイルとしては王道ですが、最近の社会を見ていると個人の努力とは関係なく社会が崩壊しかねない危うさを感じます。しかし、それは何もつい最近始まったことではないはずなんです。

  ——『解』の主人公二人の人生の行方にも、その崩壊の感覚が大きく関わっていきます。  二人とも努力もしているし、それなりに結果も出している。でも空回りしている。それも平成っぽいなという気がしますよね。すべてが表面的で上っ面だけという感じがする。それが平成という時代なのかなとも思うんですよ。

  ——昭和と平成を比較したときに、大きな違いはコミュニケーションの方法ですよね。『解』のなかでウィンドウズ95の発売、つまりインターネット元年が大きな意味を持ってくるのがとても印象的でした。

 インターネット、携帯電話が人と人とのつながり方をまったく変えてしまった。最近、職場の人の家に行きましたか? 行ってない人が多いんじゃないですか。昭和の頃には、会社の上司の家に行くって普通にあったんですよ。なぜそういう習慣がなくなったのかということも大きな謎だけれども、個人個人が、それぞれ小さい自分の部屋に閉じこもって、誰にも入って来させないようにしているという傾向が強いのかなと思うんです。はっきりとは僕も分析できているわけではないけれど、それぞれが殻をかぶってつきあっている感じはすごくする。

  ——そうしたコミュニケーションの変化を小説の中に組み込むとしたらどんなふうになるとお考えですか。

 小説で書けるかどうかはまだわからないですね。でも、大きなテーマになりえると思います。『解』ではその変化を「解けちゃった」状態として書いています。

 でも、かつてのコミュニティーはなくなったけれども、まったく別のコミュニティーができつつあるのかもしれないという感じも持っているんです。いずれ、また平成という時代を書くときには、新しいコミュニティーがテーマの一つになるかもしれない。ただ、それがどういうかたちで小説になるのかはわかりませんが。

タイトルに込められた時代論

  ——堂場さんが今年お出しになった『衆』(文藝春秋)はこの『解』と対になる作品として書かれたそうですね。『衆』は四三年前の事件の謎を解くために、かつて学生運動をしていた大学に教員として帰ってきた団塊の世代の政治学者が主人公です。その主人公がこの『解』にもチラっとだけ出てきますね。

『衆』と『解』はまったく関係のない話なんですが、世界は共通しています。僕の中では『衆』が「昭和編」で、『解』が「平成編」なんです。最近、近現代史に興味があって、この二冊はそれを小説で書いたらどうなるかということをやってみた結果でもあります。出版社は違うんですが、装丁も対になるようにしてくれとワガママを言いました。今後、作品を書いていくうえで、この二冊は僕にとってエポックなものになったと思います。

  ——『解』を読んだことによって、『衆』で堂場さんがやろうとしていたことがよりわかりやすくなったような気がします。いま、僕らが生きている社会の根っこを探していくと、そこにはミステリーがある。どちらも事件の真相という謎がありますが、それ以上に「昭和」「平成」という時代がはらむ「謎」に興味を惹かれました。

『衆』と『解』はタイトルがそれぞれ昭和と平成をすべてあらわしていると思います。昭和の頃には、民衆が一点に集中してことに当たれば、大きなことを成し遂げられるのではないかという幻想があった。学生運動などを見るとやはりそれは幻想だったと思うけれど、そう信じられる空気があった。しかし、平成は、一点集中できない時代。家族も、会社も、個々人もみんな解けてバラバラになるほうへと向かっている。先ほどいった「解けちゃった」とはそういうことなんです。

  ——時代を象徴する漢字をタイトルにあてる一方で、その時代をあくまで小説という手法でお書きになっていることも興味深いですね。時代論ではなく、小説で書きたいと思われるのはなぜですか。

 小説は人を書くのと同時に社会を書いていかなくては成立しない。人を書くことは社会を書くことだし、社会を書くことは人を書くことでもあるんだ——『解』を書いていて、そのことをあらためて感じました。小説ですから解答も結論もありません。読み方は自由です。僕なりの平成についての考えは小説のなかに織り込んだつもりですが、おそらく、お読みになった方それぞれで感じ方や、考え方は違うでしょう。どう読んでいただけるかが楽しみですね。

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